地方競馬ドキドキコラム

【私的名馬録】園田のアラブが中央挑戦「インターロツキー」

2024年05月15日

1989年5月5日、兵庫大賞典を制したインターロツキー。このときの鞍上は田中道夫騎手。
日本競馬界の歴史に名を刻んだ名馬・競馬ファンの記憶に残る名馬の活躍を競馬ライターたちが振り返る私的名馬録。


今回のテーマはー


「アラブのメッカ」。アラブ専門の競馬場だった園田は、サラブレッド導入の1999年以前はこう呼ばれていた。
サラブレッド中心の中央とは違う独自の競馬を繰り広げているという関係者の矜持が込められたこの言葉が好きだった。
その一方で、地方出身のオグリキャップやイナリワンの中央での活躍を見て、園田にサラブレッドがいないことを寂しく思ってもいた。


そんな私が驚いたのは1992年の春先だった。
この年からJRAは地方との交流拡大のため、芝のオープン特別4レースを地方馬へ開放すると発表していたが、その1つのテレビ愛知賞(6月27日、中京・芝2000m)に兵庫からインターロツキー(武田廣臣厩舎)が出走することが報じられた。
地方のアラブの中央挑戦は史上初。「そんなことできるの?」が正直な気持ちだった。


当時、牡8歳(旧表記)のインターロツキーは58戦27勝。
重賞は兵庫大賞典3勝をはじめ、61キロで勝った播磨賞など計7勝の"園田の怪物"だった。
ただ、関係者の間では「園田のアラブのオープンは中央500万(現1勝クラス)くらいの実力」と言われ、サラブレッドの中央オープン相手では苦戦必至と言えた。
しかし、関西のスポーツ紙は「園田の怪物、中央へ殴り込み」と大きく取り上げ、左回りの中京への対策として、右回りの園田を逆回りで調教する姿などを報じた。


アラブの怪物の挑戦に、マスコミも熱い視線を注いだ。
当時の様子を武田調教師はこう振り返った。
「内心、勝つのは無理と思ってたが、取材が結構来て、本当にありがたかった。勝てなくてもアラブのメッカの名に恥じない走りを見せないとと思った」


土曜のレースに備え、月曜に園田で追い切ると水曜日には中京入り。
木、金曜と芝で調整し、金曜には主戦の平松徳彦騎手が騎乗し感触を確かめた。
平松騎手は「何から何まで初ものづくし。無欲の挑戦だった」と当時の心境を語った。
単勝は16.3倍の7番人気(12頭立て)。
本来ならしんがり人気でもおかしくないが、ファンの心情馬券が人気を高めた。
パドックや馬場入場では、武田調教師が「出走馬の中で一番、声援が大きかった」と言うほどだった。


レースはサラブレッドのスピードについていけず最後方追走から11着に終わった。
とは言え、園田のアラブの中央挑戦は後にも先にも、ただ1頭。
地方に枠を広げても、2年後の吾妻小富士オープンに挑戦した大井のトチノミネフジのみ。
今はなきアラブ競馬の歴史を中央にも刻む偉業を担った。


インターロツキーは92年一杯で引退。
引退レースとなった園田金盃は、向正面で置かれる大ピンチの中、4コーナーでエンジンがかかると、直線でグングン差を詰め、クビ差、差し切る劇的な勝利だった。
引退式では詰めかけた1万人を超えるファンに別れを告げ、園田を去った。
生涯成績65戦31勝。
その功績だけでなく、果敢に中央のサラブレッドに挑んだその姿は今も燦然と輝いている。


文/松浦 渉
OddsParkClub vol.61より転載

 

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